一世を風靡した 二代目 広沢虎造
本名・山田信一
1899年(明治32年)5月18日生
<略 歴>
東京府東京市芝区白金に生まれた。
少年時代から浪花節が好きで、「東川春燕」と名乗り街の人気者となる。
19歳で上方の浪曲師二代目広沢虎吉に弟子入りし23歳で二代目広沢虎造を襲名した。
関東節の張りと関西節の低音の節回しの良さを取り入れた上に他の追随を許さぬ威勢の良い啖呵の語りは聴く者を魅了し「虎造節」として戦前から戦後にかけて一世を風靡した。
持ちネタは、国定忠治、雷電爲右エ門、祐天吉松など多岐に渡るが、中でも人気を博したのが、講談師三代目神田伯山の弟子の「ろ山」から学んだ清水次郎長伝で、とりわけ森の石松を題材にした「石松三十石船道中」は人気が高く、「寿司食いねえ」 「馬鹿は死ななきゃなおらない」などの文句は、ラジオ放送の普及も味方して多くの国民が知るところとなり、口真似をするほどだった。
1959年(昭和34年)に脳溢血で倒れ、言語障害となる。リハビリに取り組むも回復には至らず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引いた。
そして翌1964年(昭和39年)死去。享年65歳。
虎造の死後、浪曲界には虎造に続くスターが生まれず、以降浪曲界は、現在まで続く長い冬の時代を迎えることになる。だが、虎造の人気は今なお健在で若い世代からも再評価されている。