杉 弘光が語る 祖父広沢虎造の芸と生涯

第一章 誕生から都落ちまで

写真資料:1)虎造のアーティスト写真
写真資料:1)虎造のアーティスト写真

今日では浪曲をご存じの方々も少なくなりましたが、浪曲そのものを知らなくとも清水の次郎長と広沢虎造はご存知の方は多いと思います。

「旅行けば 駿河の道に茶の香り流れも清き大田川 若鮎おどる頃となる松の緑の色も冴え 遠州森町よい茶の出どこ娘やりたやお茶摘みにここは名代の火伏の神秋葉神社の参道に産声上げし快男児昭和の御代まで名を残す遠州森の石松を不弁ながらも務めます。」

虎造といえば清水次郎長伝といわれるほど凄い人気を博しました。その人気絶頂の頃には虎造がラジオに出ると、風呂屋が空っぽになり、子供たちもが「馬鹿は死ななきゃ治らない」と歌っていたほど流行していたそうです。その人気は浪曲だけでなく片岡千恵蔵や高田浩吉などのスターと共演した映画もヒットしました。

虎造は、明治32年5月18日。東京の白金三光町(今の港区麻布天現寺)に警察官をしておりました家に生まれました。本名金田信一。12人兄弟の4男で男の中では末っ子。この頃はどこの家でも兄弟が多かったそうですが、とりわけ12人もいるわけですから、年中家の中は戦争のようなありさまで。当然、家の中には居場所がありません。小学5年生になった信一少年は毎日学校以外は外に遊びに出ております。

今日も友達の家に上がり込み遊んでおりました。「ねえ、信ちゃん」「なんだよ良坊」「家に蓄音機があるんだけど一緒に聴くかい?」「へーおまえんち金持ちなんだなおもしろそうだ一緒に聞こう」と、この時聴いたのが当時人気全盛だった初代木村重松の「慶安太平記善逹道中附」という浪花節で、高輪の増上寺から京都の本山へ300両という莫大な金をもって善逹という巨漢、強靭な坊主が旅をするお話です。

現在残る明治40年代の音源で非常に古いものですが、今で申しますLAPミュージックのような楽しく、リズミカルな浪曲でありました。これに信一少年は魅せられまして、その日以来、来る日も、来る日も重松の浪花節が聴きたくて仕方がなくなってしまいました。とは言え、家は貧乏で蓄音機なんぞない、仕方がなく長男に頼みこみ寄席へ連れていってもらう事になりました。そのうち信一は自分でも浪花節をモノマネするようになりました。やがて中学を出た信一は兄が勤めていた麻布の安立電気電線(現アンリツ電気)に工員として働いておりました。
東京駅丸の内の大時計の設置工事をしたりしたそうで、工員としての腕はさっぱりでしたが、浪花節は玄人はだし。この頃には東川春燕(東家小楽燕を模した芸名)というデタラメな芸名をつけ天狗連という素人集団にまじって休日の風呂屋、はたまた会社の慰安会などで稼ぐようになっていました。ネタも当時近所に住んでいた旭堂麟生という講釈師のところに通い、稽古をつけてもらうようになりました。

昼は昼で「新橋」というこれまたデタラメなシコ名をつけアマチュア相撲に夢中になります。やがて仕事に身が入らなくなり、上司からドヤされてばかり。すっかり落ち込んでいた信一に「そんなに好きならプロになればいい。私は信ちゃんの浪花節はいいと思うよ」と、声を掛けてくれたのが、同僚で信一より10歳も年上の白石善助でした。この白石の善さんは、信一より浪花節が詳しかったのです。プロになるには師匠が必要。よければ私が付き添って身元保証人になってあげよう。という事になり、大好きだった初代木村重松に入門を志願することになりました。

この木村重松師匠は浅草阿部川町(現在の田原町)に住み安倍川の師匠と呼ばれておりました。余談ですが、この家の2軒先がお寺で、あの永六輔さんのご実家だそうです。
善さんに連れられてやって来た信一少年。あいにく師匠は留守でした。「今、家は156人の弟子がおり、師匠から弟子はお断りしてくれと言われております」と声調べもしないうちに断られてしまいました。
声調べとは「何が何して何とやら物からものまで物とやら」と意味不明な言葉に自分の節をのせて発声をします。浪曲は感情を表に出して熱演しますが感情を入れずに音(音楽)として発声練習をするために生まれた言葉だという説があります。

2)大正8年(1920年)虎造20歳の頃

声調べどころか本人にすら会えず、断られた信一はがっかりてしまいました。後日談ですが、後年、次郎長伝で虎造が売れた時に応対に出た弟子がその時の事を覚えていて、師匠に虎造の入門志願を断った話をしたところ相当に悔しがって弟子に小言をいったそうです。

「重松だけが浪花節ではない」と慰めにもならない善さんの言葉と重い足取りで。「次は同じ木村派で重松の弟弟子初代木村重友にお願いしよう」と、こんどは神谷町の重友師匠の家に行きましたが、ここでもすげなく断られます。最後に東家小楽燕にも断られたとき「あ?俺にはなんて運がねぇんだ」とがっかりして家路につきました。

家に戻ると、父親はすでに他界し、家を継いでいた兄吉政は、近頃、信一が浪花節にうつつをぬかし、仕事に身が入らない事に小言を並べました。これ以上言う事を聴かないのなら大阪の弟の会社に面倒みてもらうから出て行けと言われたのです。いつもなら父親代わりの兄貴の小言を黙って聞いている信一でしたが、大好きな浪花節の師匠連中にことごとく弟子入りを断られて、もうヤケになっておりました。かくして江戸っ子のいさぎよさか、粘りのなさか、あっさり浪花節をあきらめ大阪へと旅立ってしまいました。

第二章 大阪苦心談

 大好きな浪花節の師匠連中にことごとく弟子入りを断られて、浪曲師になることをあきらめ大阪へとやって来た信一は兄の家に下宿しながら薬品会社の勤めに出しました。
営業に行っても口上は上手かったが、専門知識がないのでさっぱり駄目で、休日ともなると憂さばらしに自然に寄席へと足が向きます。この頃、関西の浪花節は吉田奈良丸、京山小円、京山若丸の3人が大正5年に亡くなった浪曲中興の祖といわれた桃中軒雲右衛門と共に四天王と呼ばれ黄金時代を築いておりました。

また関西にはケレンと申しまして、笑いがたくさん入った浪花節が多く、信一も関心するほど笑い転げていたそうです。そんなある日、同僚の岩本という男が信一を訪ねて来ました。岩本とはヘボ将棋を指したり、寄席へ行ったりする仲でした。その岩本から「玉造に、心安うしてる席亭がおってな。そこへ浪花節を聴きにいけへんか?」と誘われました。
喜んでついて行くと、円城亭という端席で、京山円勝という人がトリをとって公演していました。場末の端席でありながら客はよく入っていました。しばらくすると席亭に挨拶に行った岩本が戻ってきました。

「えらいこっちゃ!出演者が急病で倒れて穴が開くいうて席亭が困ってるんや、信ちゃんあんた浪花節できるやろ、ちょっと上がってやったってえや」「いや、急にやれと言われても」「いや、普段からあんたの浪花節はワシがよう聴いて知っとるアンタやったらプロやゆうても通るで、なっ頼むわ」と手を合わせて頼まれたのです。引くに引けなくなった江戸っ子信一は、「ここは大阪だし、俺を知っている者は誰もいない、幸いお客も大入。本当は唸りたくてウズウズしてたところよしやろう!」と、関西でも人気があった三代鼈甲斎虎丸の「安中草三郎」と三河家円車の「ドンドン節」をやって大喝采を浴びました。 

後日、これが縁で席亭と、トリをとっていた京山円勝と親しくなり、円勝のすすめで浪花節の師匠を紹介してもらい、弟子入りを志願するのですが、またまた兄貴の会社は飛び出す、稼ぎはなくなると苦労がはじまります。数日後、信一は円勝に連れられてやって来たのは京山一門ではなく、笹本という興行社でした。「変だな」と思った信一でしたが、円勝は「ここの社長はんにあんじょう頼んでおいたさかい 言われた通りしとったら間違いないわ、ほなさいなら」と信一を残してさっさと行ってしまいました。 

仕方なく汚い看板が掛かった手狭な事務所に入ると社長らしき赤ら顔のでっぷりとした男が「円勝から話は聞いた、浪花節はもともと大道芸やさかい 大道で修行をするのがええんや、早速、明日から大道で仕事してもらうで、今日からここの2階へ泊まるんや」と、勝手に話を進める。まるで日雇い人夫のような扱いに頭にきた信一だったが、他に行く宛もなければ、今更、兄貴の家にも戻れません。仕方なくすえた臭いのするせんべい布団にくるまってその夜を過ごしました。次の朝、下の事務所に降りて行くと、二人の漫才がいた。「おはようございます」ペコリと頭を下げた信一に小太りの男が「新入りかいな?」と声を掛けました。「はい、金田信一という浪花節でございます」するとやせた眼鏡の男が「言葉つきからすると 東京モンやな せいぜいきばりや」といわれました。

写真資料:1虎造21歳の頃

この二人が誰あろう 後に大阪漫才の神様と呼ばれた横山エンタツ、花菱アチャコとは、この時、信一も知るよしもありませんでした。 

こうして、しばらくは商店街やお祭りの余興と街頭で仕事をしておりましたが、いつまでこんなことをしてもちゃんとした浪曲師になれるはずもなく、「どうやら円勝は社長から金をもらって、俺を売ったな」と、考えれば考えるほどバカバカしくなり、ついに、ある深夜、荷物をまとめ夜逃げと決め込んだのです。朝になり、仕方なく元の勤め先に兄貴がいないのを見透かして、同僚の岩本を呼び出しこのてん末を話しました。

「そりゃ 難儀なこっちゃ?、どないするつもりやねん」「どうも こうも当てがなくなっちゃったんだ。今更、兄貴のところへも戻れないから、お前さん家に泊めてくれ」「そりゃあかん。それゃ絶対あかん。家は狭い長屋に8人の大所帯や、寝るとこなんてあらへんがな、そおやな、何かええ考えは、そや、そないゆうたら信ちゃんは東京で富士月子という浪花節の人知ってるゆうてたな?」「うん、むかし同じ講釈師に習って、出入りしていた時に仲良くしてもらったんだ」「うん、そや、その富士月子はんが松島の広沢館に出てるはずや、そこへ訪ねて行ったらどうやろ」「ええ、月子姉さんが?」と、まあ、ここんところを虎造風に申し上げますてぇっと「待てば海路の?日よりあり」岩本に挨拶もせずに、韋駄天走りの信一が参りましたる広沢館、楽屋口へと飛び込んだ。捨てる神ありゃ助ける神。こうして富士月子に大阪へ来てからの物語を語り、月子から広沢虎春という人を紹介してもらって、広沢館に住込みで下足番として働き始めたのです。

第三章 襲名と苦難の日々

 信一が広沢館に住込みで下足番として働き始めて。早いもので三月がたちました。信一はいつものように前座仕事を終え、まだ客の少ない高座に上がっておりました。そこへ虎春の師匠で「旦那」と呼ばれた大立て者広沢虎吉が入ってきました。戦前は浪花節の寄席を4軒も経営し、引退後はあの吉本興行の創始者吉本せいにその後を譲り、今日の発展の礎ともなったそうです。

「おい、虎春!今、高座へあがってるのは誰や?」  「はい、あれは私が連れてきた金田という東京から来たやつです」  「そうか、話があるからはねたら家に呼んでんか」  「はい」こうして、大師匠虎吉に認められた信一は芸名も広沢天華と改めて正式に入門を許されます。時に大正7年、広沢天華こと信一19歳の春のことでした。

 正式に弟子にはなったものの前座には変わりないし、第一この芸名はありがたくもなんともない。その間もまた師匠に呼ばれて、名前の話だと言われたんで、喜んで行ったら、「天華」  「はい」  「そろそろお前も1年になる。新しい名前をやろ思うんやが、ワシの可愛がっとる女の手褄使いに天勝というのがおる。それにあやかって広沢天勝ってどうや?」  「冗談じゃねえや。「天華」なんて中華屋みたいな名前は嫌だと思っていたら、今度は「天勝」これじゃまるでとんかつ屋だ!」  と、言いたいところだったが大師匠に逆らう訳にはいきません。渋々  「ありがとう存じます」  と頭を下げた信一 「なんや、天華?涙流して、そんなに嬉しいんか?」  「嬉しかないやい」  と、この芸名の件では二度に渡り、ガッカリさせられただけに、虎造という名跡を頂いた時には、 「ありがとう存じます。虎吉よりもいい名前と、ついうっかり口がすべりそうになるくらい喜んだそうです。

写真1:昭和元年27歳の頃

そして、4年の月日を経て、虎造は東京に舞い戻ります。東京で襲名した虎造は浅草の初音会会主大谷三蔵の引き立てにより、市内の寄席に出演するようになりました。ある公演で助演した女流呑気家綾好が、虎造の浪花節と男っぷりに惚れ込んで、亭主の美弘舍東盛と娘のとみを紹介しました。これが縁で虎造はとみと結婚し、東盛(山田喜太郎)と養子縁組をして山田信一となりました。大谷三蔵、義父東盛たちのおかげで徐々に仕事は増えていきましたが、これという十八番の出し物もなく、寄席での公演の日々が続きました。

ある日、出番がなかった虎造はある寄席に立ち寄った。当時、人気絶頂であった講談三代神田伯山がトリを取って公演していました。そこで「清水次郎長伝」を聴いた虎造はその面白さに夢中になりました。その日以来、雨が降ろうが、風が吹こうが伯山の出ている席には必ず出向き、かじりつくように聴き入りました。そして、メモを取ったり、口を動かしたり、つぶやいたりと、その姿は周囲からみても目立つ存在でした。ある日、いつものように客席にいた虎造は若い男に声を掛けられました。「失礼ですが、師匠が楽屋までお越し願えませんかと、申しております」と告げられ楽屋に案内されると、そこにはあの名人神田伯山本人がいました。伯山は虎造を見るなり、「あなたはご同業のようにお見受けしましたが」そう言われた虎造はきまり悪そうに、「はい、私は広沢虎造という浪花節でございます」と言って下を向いていました。

しばらくの沈黙の後、伯山が一っ調子声を張り上げ、「私の次郎長伝は浪花節では玉川がお家芸で、勝太郎が演っているが、おまえさんには許した覚えがねえ。それに盗人みていにこそこそ人の芸を盗みにくるような奴には、二度と来てほしくねぇから帰ぇってくれ!」名人神田伯山にこうきっぱり言われた虎造はうつむいたまま無言で楽屋を後にしたのです。昭和2年。真冬の寒風が虎造に容赦なく吹きつけました。

第四章 虎造映画と興行

 人間の縁とチャンスはどこに転がっているか分からないものです。私の手元に古い都新聞のスクラップがあります。日付は昭和8年4月12日。
「横電(東急東横線)と圓タク(*1) 衝突 廣澤虎造氏等の奇禍」  という見出しとともに、当時35歳の虎造の写真が大きく掲載されています。この大事故で、運転手は重体、番頭は死亡。虎造だけがかすり傷で助かりました。当時、浪曲師が新聞に載る事が少なかったために大変話題になり、この一件以来、虎造の名は東京中に知れ渡ることとなり、浪曲番付の上でも前頭筆頭に据えられました。

「次郎長伝」が好評、ラジオ、レコードの普及。所属の浪花家興行社をはじめ、永田貞夫、山口登、吉本せいなどによる本格的売出しが始まったのもこの時期でした。

昭和12年春。「東洋一の五千人劇場」といわれた浅草国際劇場が開場しました。この大劇場で虎造の独演会を永田貞夫が計画しました。それも4日間昼夜、延べ4万人動員の壮大な計画でした。浪曲の記録では大正時代に、日本一の収容人数を誇った蔵前国技館で、三代鼈甲斎虎丸が3日間で1万人を動員したのが最高でした。見事、興行は大成功しましたが、今日のようにメディアが充分でなかった時代に、これだけの動員を記録した事は、虎造の人気もさることながら、永田貞夫が伝説の興行師と詠われた所以と思われます。

「清水港」1939年(昭和14年)日活より 片岡千恵蔵と虎造(当時40歳)

翌年、昭和14年。虎造は日活「清水港」に出演。浪曲師が映画に出演する場合、役者としては端役で、浪曲のみを「出語り」として登場します。しかし、今回の出演は役者としての動きが可能とみたマキノ正博監督による大抜擢でした。しかも、共演者に片岡千恵蔵、月形竜之助、沢村国太郎など一流の役者が勢揃いしています。虎造は「三下の虎三」というコミカルな役柄を器用に演じました。また、東宝では「初笑ひ国定忠治」で横山エンタツ、花菱アチャコと共演し、大阪で修行中の思い出話に花を咲かせました。

翌年、昭和14年。虎造は日活「清水港」に出演。浪曲師が映画に出演する場合、役者としては端役で、浪曲のみを「出語り」として登場します。しかし、今回の出演は役者としての動きが可能とみたマキノ正博監督による大抜擢でした。しかも、共演者に片岡千恵蔵、月形竜之助、沢村国太郎など一流の役者が勢揃いしています。虎造は「三下の虎三」というコミカルな役柄を器用に演じました。また、東宝では「初笑ひ国定忠治」で横山エンタツ、花菱アチャコと共演し、大阪で修行中の思い出話に花を咲かせました。

昭和15年「続清水港 代参夢道中」(共演、片岡千恵蔵、轟由起子、美ち奴、沢村国太郎、志村喬)に照明部員広田&旅の浪花節語りというダブルキャストで出演。 虎造人気が上がって、良い事ばかりは続きません。

「口は禍の門、舌は禍の根」虎造浪曲の様な事件が起きました。昭和15年6月。虎造は九州に興行に出かけた際、地元の興行師から新興キネマの映画(女剣劇江川真知子共演)に出演を依頼されました。酒の上の話で、マネージメントの事など解らない虎造は「よろしくお願いします」と返答したのです。

東京へ帰ってすぐ、事務所にスケジュールの問い合わせがあり、事務所側は驚きました。当時、虎造の映画出演は吉本興業が行っていて契約上、日活、東宝以外の映画には出演できない状態にありました。双方の話し合いは着かず、8月15日山口登(二代目組長)と九州籠寅興行部との抗争に発展し、死傷者を出す大惨事となりました。結局、警視庁が仲介に入ってようやく手打ちとなりした。この事件は一浪曲師の興行権から組同士の面子を賭けた抗争として世間を騒がせました。

「銭形平次恋文道中」1951年(昭和26年)大映より花菱アチャコと虎造(当時52歳)
「次郎長三国志」1953年(昭和28年)東宝より 虎造、久慈あさみ、森繁久彌らとの珍しいオフショット

虎造の人気と存在は、虎造自身が考える以上に大きなものになっていました。戦後は、東宝映画でシリーズ化されました「次郎長三国志」(昭和27年?29年、全9作品)が大ヒット。この作品は浪曲師や歌手が映画に出演する先駆け的な作品として、現在でも記憶されています。このように昭和14年から戦後の昭和32年にかけて、虎造は37本の映画に出演しました。仕事も私生活も絶頂期を迎えようとしていました。

*1圓タク(円タク)大正末期に登場した「市内全域一円均一」という格安タクシー