虎造の源流 虎造に影響を与えた 6人の名人芸
三代鼈甲齋虎丸 安中草三郎 表題附:千住の捕物 M-2(11:15)
虎造節の中の「あいの子節」はこの三代虎丸が基本となり、初期の虎造節は 虎丸の模写といっても過言でない。
虎造の三人会で欠員が出た時、若手の大事な会だからと自ら出演を買って出た事もあった。
三代鼈甲斎虎丸とは・・・
三代鼈甲斎虎丸は本名荒井正三郎。
中京節の二代鼈甲斎虎丸の弟子で、品川の商家に生まれ、父親は「山崎亭」という寄席も経営。その影響から幼い頃より芸事を好み、姉の習っていた長唄をすべて覚えて、おさらい会で見事唄い納めて人々を驚かせた。浪花節の世界に入る前には市川宗三郎一座に在籍。
また名古屋では新派で秋月静夫という名で女形もこなしていた。
そんな虎丸が独立して芝居をやろうと、仲間と相談して新派の一座を飛び出したが、うまくゆかず、転々とする途中、横浜で桃中軒雲右衛門の浪花節に出会いました。
たった1人舞台で数人を演じ分け、聴衆を感激させている浪花節の魅力にとりつかれ、役者を辞めて浪花節で身を立てようと、二代鼈甲斎虎丸に入門した。
「吉右ェ門」と名乗っていた初期の頃は、節真似だけで鳴かず飛ばずであったが、三代目虎丸襲名からは初代が残した 「安中草三郎」 (三遊亭円朝「後開(おくれざき)榛名の梅が香」を浪曲化)に小節のきいた中京節を織り込んで完成させた。
江戸っ子受けする浮き立つ様な名調子と、独特の早節は一代限りの華のある芸といえる。 「安中草三郎」は主人のために盗みをはたらき、処刑されるといった一風変わった義侠伝です。
昔はこの表題附け(枕)
♪「人生わずか五十年 その半生は夢うつつ 残る半ばに孜々(しし)として 人と生まれし天性を 心にかけて尽くすべし」 が有名で、素人にはちょっと真似の出来ないむずかしい節が特徴。
この「安中草三郎」の話は「生い立ち」「千住の捕り物」「おうたの首打ち」「孝女の身売り」などの段があり、もとが新派の役者だけに女形の科白は絶品の芸といえる。
男前がよく、芸にも研究熱心でたちまち浪曲界一の人気者にのし上がった。芸人子供の親分肌で、新しもの好き、浪花節を「浪曲」と改めたのもこの虎丸だった。
極め付きはこの当時東京一の集客を誇った蔵前の国技館に、3日間で1万人を動員出来ない場合には引退をするといった前代未聞の興行を成功させたと、記述に残っている。
そして、虎丸が昭和13年54歳、重友が14年57歳で世を去って、第三期浪花節黄金時代へと時代が流れて行く。
この二人に初代木村重松の節をアレンジしたのが虎造節である事は、今日ではあまり知る人も少なくなってしまった。