虎造の源流 虎造に影響を与えた 6人の名人芸

初代木村重友 慶安太平記 正雪と式部 M-3(14:00)

虎造が小学生の頃、友人宅の蓄音機で聴いて浪曲に興味をもった演目。虎造が弟子入りを志願した事もある関東節の大看板。

初代 木村重友とは・・・

第二期浪花節黄金時代(大正5年頃?昭和8年頃)に一世を風靡した浪曲といえば、天保六花撰「河内山宗俊」の初代木村重友、榛名の梅吉「安中草三郎」の三代目鼈甲斎虎丸です。

浪曲師は先人の残した節を取り入れ、苦労を重ね、自身の芸を確立してきた。
その中でも初代木村重友、三代目鼈甲斎虎丸の二人はとりわけ個性的で味わい深い節の芸といえる。

初代木村重友は初代木村重勝の弟子で、初代木村重松の弟弟子(事実上、重松の弟子)にあたる。 川崎の雑貨屋に生まれ、本名岩田甫。浪曲界に入ったのは稀にみるほど遅く、重友29歳でおまけに妻帯者であった。しかし、天性の美声と啖呵の良さでたった1年で真打となった。

十八番の「河内山宗俊」♪「腰黒黄網代(こしぐろきあじろ)ぐらいな乗り物連ねて雲州の、玄関先にと横付けして、うまくいったらそれでよし、バレたところでもとっこじゃ」という科白は宗俊のワルとしての太々しさ、度胸が手に取る様に表現され、「重友の河内山」と呼ばれた所以でもある。

人物、情景の描写が素晴らしいだけでなく、決して他の芸のお手本をなぞったのではないところが、重友の芸才といえます。「天保六花撰」「越の海勇蔵」「稲妻お玉」「小金井小次郎」「慶安太平記」等の全段が重友の節によって開花した。今ではあまり使われなくなった啖呵の最後の一行を節で聴かせるあのいなせな関東節。
「神谷町の師匠」と呼ばれ、木村派の名声を高め、初代木村友衛、若衛、国友忠など浪曲史を彩る多くの直弟子、孫弟子にも恵まれた。